正受庵(Shoju an)
〒389-2253長野県飯山市飯山上倉1871
駐車場:無料駐車場がある。
正受庵(Shoju an)は、江戸時代の名僧、白隠慧鶴禅師(Zen master hakuin ekaku)の師である正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)が住んでいた庵です。
境内案内図(Information map)です。駐車場から坂を下りて山門まで行きます。JR飯山駅からだと、地図右側の市公民館側から歩いてくる事になります。
駐車場は、余裕でバスを停められるくらい広いです。
公衆トイレの隣にも駐車場がありますが、やや小さめです。
境内案内板やトイレの前から、禅堂(Zen do)を望みます。この禅堂(Zen do)は昭和16年に建築されたもので、長野県で唯一、妙心寺派の修行様式を保持する建物なのだとか。坐禅体験会もやっているそうです。右奥に見えるのは庫裏(Kuri)です。
ちょっと急な坂を下りていくと、山門(San mon)が見えて来ます。
山門(San mon)を正面から。これが有名な「白隠蹴落とし坂(Hakuin ke otoshi zaka)」です。流石に当時は石段ではなかったと思いますが・・・いやはや。
「白隠蹴落とし坂」を登ると、天下三庵と誉れ高い本堂(Hon do)が見えてきます。これは1847年善光寺地震の後に再建されたものです。
賽銭箱に真田六文銭が書かれているのは、正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)が真田一族の子孫(幸村の兄・信之の子)だからです。
扁額です。これは天下三庵の一つ至道庵(Shido an)の主、至道無難禅師(Zen master shido mu nan)が揮毫したものです。至道無難禅師(Zen master shido mu nan)は、正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)の師であり、至道庵(Shido an)は東京の小石川(文京区)にありましたが、東京大空襲で焼失し再建はなりませんでした。
庵(本堂)の中は狭く、座敷と、茶の間と、囲炉裏と台所がある板の間という構成です。飯山城主は正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)に寺領を寄進しようとしましたが、その際「出家は三衣一鉢あれば良い。それ以上の物を求め、民の富を奪って何になる」と言って固辞したそうです。
囲炉裏と台所です。この庵は、善光寺地震(1847年)や新潟県中越地震(2004年)などの災害や、明治政府の神仏分離令による廃寺の危機を乗り越えて、昔の姿のまま保存されているそうです。その為に山岡鉄舟(Yamaoka tesshu)らが尽力したという記録が残っています。
本堂(Hon do)の向かって左側にある庭と、心字池(Shin ji ike)です。
庭の手前、本堂の縁先にある水石(Mizu ishi)です。正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)が寺領の代わりに城主から頂いた寺宝だとか。
本堂(Hon do)の縁側です。鐘が下がっていますね。
本堂正面を左側から。奥に見えるのは茶室です。
本堂裏手の階段を上がった所から撮影。左側から、鐘楼、茶室、本堂です。茶室の前にある小さな屋根の建造物は「今日の泉」と呼ばれている井戸です。
本堂の裏、庫裏の向かって右側には、墓地があります。墓地には無縫塔(僧侶の墓石)や、栽松塔(正受老人の墓碑)があるのですが、個人的にお墓の撮影はしない主義なので、写真はありません。その代わり、正受老人が坐禅をしていたと言われる坐禅石を御覧下さい。
坐禅石を反対側から。看板などはありませんので、見落とさないように気をつけてください。
臨済宗中興の祖と誉れ高い白隠慧鶴禅師(Zen master hakuin ekaku)は、この正受庵(Shoju an)で厳しい修行を積んだ後、静岡県の松蔭寺(Shoin ji)の住職となりました。松蔭寺は臨済宗白隠派の大本山となり、今も現存しています。
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正受老人・道鏡慧端(Shoju rojin・dokyo etan)の師である、至道無難禅師(Zen master shido mu nan)の墓は、東京澁谷の東北寺(To hoku ji)にあります。
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